2020/06/28
すいな健康院/天と地と人代表 推拿の信長正義
人生の主導権は自分で握る
多くの人が
このニュースに触れていて
もう忘れ去られかけているけど、
4月30日の出来事で
練馬区のとんかつ店の
50代の店主が油に引火し
全身やけどで焼死した、
「自殺」らしい、
この店主は
ぼくの30年来の親友だ。
4月の中頃から
コロナの影響で店を休業しており
店の存続に悩んでいた
という話もあるらしい、
ぼくが独立した前後、
2005~6年頃からは
リアルの付き合いはなくなって、
Facebookを通じて
近況を知るくらいだったが、
音楽活動のよき理解者だった、
彼との関係を
ここでも詳しく書きたいが
本題から離れるので割愛する、
もし興味があったら
『【誓い】あいつが死んだ』
このブログ記事を読んで下さい。
当分の間、
彼が自ら死を選んだことも
彼が亡くなったという事実
それすらさえも
信じられなかった、
いろんな角度から
彼の死を
そして「自殺」という選択を
時間をかけながら
受け入れていった結果、
大きなメッセージを
受け取っている、
それは、
「死」に
決して『無駄な死はない』
ということであって、
「生」に
「無意味な生はない」
ということだ。
そして、
そこには元々意味はなくて
そこに意味を付けるのは
彼自身であり
ぼく自身である
彼が自分の人生に
どういう意味付けをしたのか
自分の死をどう意味づけたのか
わからないけど
ぼくの中には
ぼくの知る彼がいて
ぼくが理解した彼の人生がある
正しいか
そうでないかは
ぼくにとっては意味がない
ぼくには
傍目にはうっすら成功者に見えた
彼の「生と死」を踏まえて
『その意志を引き継ぐ』
という意味がはっきり「ある」
少なくともぼくにとって
彼と出逢い共に過ごした時間と
彼の死が残した衝撃には
多大なる意味と価値があるのだ
今ここでは
抽象的な表現しか出来ないけど
「自分で決める」って
こういう一つ一つから
やっていくことなんだよね、
『人生の主導権』なんていう
大きなテーマを掲げたけど、
大きなことを形作っているのは
小さな判断、選択、決断や表現
であり、
それらの積み重ねが言動になり
その結果が人生になる
こういったところでの発信も
責任と自信を持って行えるか、
それがビジネスにも反映される
「生」を選ぶも「死」を選ぶも
「誰かの言動」に従うのではなく
「誰かの支持」で行うのではなく
自分の意志で
判断し選び決断し実行する
その積み重ねなのだ
だから『自由』なのだし
『主導権』を握れるのだし
それを求め続け
『生』を全うするのだ、
しかもそれは
道に外れたことではなく
いけない事をしているのでもなく
天が求める『真理』なのだ。
『真理』と言うと「宗教」だと訝しがるバカはそのままで
先日、
『すいな健康院』当時からの
「年配の患者さん」から
『天と地と人』という名称は
「宗教臭いから変えてほしい」
という旨のお言葉を戴いた、
領収書に記載されている
「天と地と人」の屋号名称が
宗教関係の施設のものである
と疑われるのがお嫌なので
「すいな健康院」に変えて欲しい
ということらしかった
宗教関係の支払いに
領収書があるのかどうか知らない
というのはさておき
暫くお相手の身になり考えてみて
ぼくの結論は
「そのままでいい」
ということになった、
ぼくの活動は
「宗教団体」を形成するものでも
それを志すものでもなく
完全に営利事業であり且つ
団体構成を必要としていない
しかも
「天と地と人」が
宗教臭いかどうかも別にして
「宗教心」は
道徳とか哲学とかと同様なもので
「怪しい」とか「疑わしい」とか
「訝しい」ものではない
『真理』とか『宗教心』から
意味不明な距離を置こうとする
人生の終盤に入ってのその方の
「思考の枠組みの頑固さ」に
全く大きなお世話の老婆心ながら
心身の健康状態を危惧してしまう
これも
どっちが正しいか間違っているか
ではなくて
『私はこの考えで言動してます』
という
『自分軸』を明確にしておく
それが必要なのだと思う
というのも、
かつてのぼくは
筋金入りの「他人軸」信者で
実践者であったと思うからで
「それが自分の自由を阻害し
苦しめていた」
とはっきり認識できていて
「相手の身になって」が
行き過ぎて心底に沁みついており
イソップ童話の「ロバと親子」の
世間に翻弄されるバカ親子の如く
であったからだ
「他人軸」信者は何もしないし
何も産み出さない
何か「出来ない」のではなくて
責任をとれないので「やらない」
とにかく
その他大勢に流されていた方が
安全だし長生き出来る
と信じて疑わない
その「言動」が多数派になるまで
聴こえないし見えない
そういう「フリ」
が身についている
今のぼくは
多数派でなくても苦しくないし
少数の考えで言動しても怖くない
何故だろう?
おそらくただ慣れたのだと思う
『推拿』が日本では少数だし
医療業界でも施術業界でも
完全に少数派である中で
それを自分の『志事』で
『使命』だと思い込んで
やってきたので
そうならざるを得なかったのだ
でも
それが今や自分であるし
自分の『唯一無二の存在』である
要因の一つとしてやってきたのだ
少数派だからこそ『キミだけの価値』が生まれる
今や
整体師もセラピストも療術師も
各種国家資格を保持する治療者も
有り余るほどいる
しかも、
たとえ国家資格を保有していても
それを活用せずに
それとは異なる活動をしている
人たちも数多くいる
だから、
何もいまさらキミが
あるいはぼくが
「他の者を制してまで」
その道で生き続けねばならない
理由は一つもない
しかし、
もしキミに
あるいはぼくに
「他の人には持てぬ特異性」
があってしかも
「その特異性を望み探している」
誰かがいるとしたら
ぼくたちはその道で切磋琢磨し
『唯一無二』を身に着け
その誰かと出逢うべき
かも知れない
そしてその『唯一無二』は
当然ながら
ぼくにはぼくの
キミにはキミの『唯一無二』だ
たとえばぼくの場合は
子供の頃から
優しくて
他人への思いやりがあり(過ぎ)
引っ込み思案の目立ちたがり屋
寂しがり屋の人間嫌い
楽しいことが好きで
リーダータイプであり
縁の下の支え役であり
いじめもやったが
いじめられて精神を病み
音楽に救われ
音楽で救いたいと志し
社会の底辺で生きながら
人生経験を積み
推拿に出逢って
健康と経済活動と人間関係を学び
自分の使命を知り
現在に至る
まあそんなところだ。
キミは
どんな今までだったんだろう?
セラピスト?
サラリーマン?
自営業者?
引き篭もり?
・・・・
どんな今まででも
キミはキミだけの
『唯一無二』を生きてきた
そこに『少数派』の自信
を身に着けて欲しい
そこに
キミが今気になっている
少数派の『推拿』を
取り入れてはどうか?
そうすると
どんな想像が出来てその先に
どんな未来を創造出来そうか?
人生にある「失敗」も「成功」も
それ程大した意味はないんだよね
全てはその時その時の感情の蓄積
それを「経験」として
どのように意味付けをして
どのように「生かし」生きるか?
それを
自分が決めて経験して
自分の人生の意味とする
ぼくはそう思って今生きています
それで、
この数か月
じっくりいろんな角度から考えて
行動してきて思うことがあります
それは
これらの考えや行いに
共鳴し合える人たちと出逢いたい
ということ
だから、
ぼくのほうからも
もっともっといろいろ
発信していくし
行動していきますね、
よろしくお願いします。 すいなの信長